資本主義と民主主義と科学の時代が終わる

もともと、資本主義と民主主義と科学は、民衆が平等な生活をすることをドライブしてきた。

でも、現時代では、これ以上王様や権力者から奪いたい能力はない。

というか、王様や権力者をうらやましいと思わない。

 

そして、資本主義・民主主義・科学が世界をドライブしてきたため、その3つの作り出す価値観が現時代も残っている。その3つが世界をドライブできていないにもかかわらず。

 

例えば、お金がその人の価値を測る基準になっているし、多数決のような民主的なやり方で物事を決めることがよしとされているし、何でも科学的に答えが出るべきだと思っている。

 

ひとつずつ見ていきたい。

 

まず、資本主義の話。

貧しい人たちの生活を人間的な生活にするのは、お金。これはまぎれもない事実。

資本主義の役割はそこにある。

 

資本主義が起こったのも、お金を稼ぐことで、生まれや身分に関わらず、人間的な説かつを送ることができるようになったから。

でも、それが十分になったとき、人間的な生活をできるようになったとき、お金は資本主義において、次の欲望を駆り立てようとする。

十分なのにも関わらず、他の人はもっといい家に住んでいる、もっとおいしそうな食事をしている、それをうらやましいと思い、足るるを知らず、贅沢をする。それが資本主義の悪なんだと思う。

だが、贅沢をうらやましいと思わない価値観が出てきたと思う。

だから、お金があっても、他の人がうらやむようなことができなくなってきた。

 

ふたつめに、民主主義の話。

昔は、権力のない人たちは、権力のある人が決めるように、生きていかなくてはいけなかった。もしくは、理不尽に殺された。

恋愛や職業も、誰かが決めたものに従わないといけなかった。戦争にもいかなくてはいけなかった。

だから、みんなで社会の形を決めれるようにした。一部の人が決めるのではなく、みんなで決めれるようにした。そして、自由を手に入れた。国に制限されていることは、みんなが納得できるものだけになった。

でも、十分な自由を手に入れたはずなのに、もっとよい社会、もっと自分に都合のよい社会にしたくなった。最初は、自由が欲しかっただけだった。理不尽なことをしたくないだけだった。

でも、今は、なんで困っているのに助けてくれないのかと思うようになった。

誰もが幸せだと思える社会なんじゃなかったのか。自分が苦しいのは、社会のせいなんだ。と思って、色々な人が、色々な欲望を発信し始めた。

でも、今は、最低限の生活と、自分で選択できる自由がある。きっと、民主主義ができることはここまでだ。

 

そして、科学の話。

昔、科学が生まれた。誰もが自分の力を強くしたかった。もっと楽に水を飲めるようになりたい。もっと楽に服を作れるようになりたい。もっと知識が欲しい。もっと壊れない家がほしい。もっと速く移動したい。

そして、それができるようになった。

人は十分な力を科学を使うことで得ることができた。

少なくとも物理的な力は最大限得ることができた。思考力はまだ拡張の余地があると思うが。

だから、みんなが欲しいと思う力は、みんなはもう持っている。十分すぎて、時間を短縮したり、安くものを作れたりすることばかり、目指すようになってきた。

それは、何の能力も拡張していない。科学が生み出せる能力はあまりにも伸びしろが少なくなってしまった。

ちなみに、宇宙はどうやってできたかとかの謎は、まだまだたくさんあるが、それを解くことは役に立つとは思えない。謎のままでいいというか、どうでもいい謎。

 

そうやって、社会は、資本主義・民主主義・科学にドライブされて、現時代のような世の中になった。昔に比べれば、とても素晴らしい世の中だと思う。

でも、その代わりに、社会は、資本主義・民主主義・科学に支配されてしまった。

 

お金のある人が、社会の仕組みを決め、そこは、お金のある人が都合のよい社会になり、お金を持っている人が社会に貢献している人だと。

人の気持ちではなく、論理的に、科学的に正しいと評価できることが正しいことだと。

デザインや音楽を真似して、より素敵な気持ちにできる何かを生み出したとしても、真似することはルール違反だからやってはいけないと。

自分が生きる可能性を追い求めるために大麻を使うことは、ルールで決められていることに反するからダメなんだと。

お金儲けにならないから、介護は手を抜けと。

サービス残業しろと。友達との約束を破っても働けと。

安全性に問題があっても売れと。賞味期限切れになるものがたくさんあるとわかっていても、おにぎりの種類を増やせと。

農薬をたくさん使って食品を作れと。

放射能をまき散らして住めなくなる場所を作るかもしれないが、安い電力を作れと。

おまえが苦労すれば、社会が幸せになるからと。

 

そして、お金さえ稼げれば幸せになると。

だから稼がせろ。保育園を作れ、税金を下げろ。

コストダウンできるような技術をつくれ。満員電車で通勤しろ、遅刻するな。

 

そうして、世の中をよくすることも、人類の発展に寄与することもしないまま、

資本主義で手にしたはずの人間的な生活を手放し、

民主主義で手にしたはずの自由を手放し、

ただただ苦労して、つらい思いをして、何のために生きているのかわからなくなる。

 

そこに残るのは、忙しさに追われ充実していると錯覚することと、

好きなことをやっている人をねたむ気持ちと、

贅沢することが幸せだと思う勘違い、

そして、頑張らないことへの罪悪感。

 

じゃあ、現時代は、どうなっていくのか。

資本主義に代わって、人が人を幸せにどれだけしたかをもとに、人を評価する思想と、

民主主義のように誰もが幸せであることではなく、ローカルな、自分の周りの人だけをもっと幸せにしようとする思想と、

科学のように論理的によい悪いを判断するのではなく、人の気持ちを軸に判断する思想が、

社会の基盤になるような気がしてならない。