リア充という特権階級 第一話(スポーツの場合)

ビッグデータやAI、ディープラーニングが現実に使われるようになったときに起こる世の中の変化を、小説形式で書いていこうと思っています。

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ノビタはサッカー監督をやめた後、自身のノウハウを使い、選手のデータを戦術を入力することで、どちらのチームが勝つかをシミュレートできるシステムを作った。そして、サッカーの試合結果のクジで大金を稼いだ。と同時に、サッカーを魅力のないものにしてしまった。

 

彼の作った予測するアルゴリズムは、最初は5割程度の正答率だったが、そこで稼いだ金をそのシステムに投資し、株式や為替の投資に用いられているアルゴリズムを使うことで、精度を上げていった。

 

株式や為替で稼いでいたトレーダー達も、その流れに乗り、そのスポーツくじで大金を稼ぎ始めた。そして、爆発的に予測精度が上がり、大きなミスや不測の事態が起こらない限り、ほぼ的中させることができるようになってしまった。

 

結果を知った試合を応援するほど、やる気の出ないものはない。サポーターも応援しなくなり、選手のモチベーションも下がってしまった。

 

ノビタは、そこで稼いだ金を、身体障碍者のために使った。そして、半身不随になった人が歩くことができる器具を開発した。それは、ノビタがW杯で負けた時とは比べ物にならないほど、批判を受けたからだ。ノビタがサッカーをつまらなくしたと。

 

ノビタは更に開発を進め、ノビタの作った器具をつけた人の方が通常の人より速く走れ、高く飛べるようにした。

 

そして、オリンピックの年に、ノビリンピックという国際大会を作った。そこでは、障碍を持った人が、自信をサイボーグにし、生身の人間より高い身体能力であることを競う大会になった。

 

世界中の人は、見たこともないスピードで走るサイボーグの人たちに熱狂した。そして、生身の人間がやる予め結果のわかっているスポーツではなく、ノビリンピックが人気になった。

 

ノビタは、またサッカーに戻った。サイボーグの人たちを集めたチームと、小さなリーグを作ったのだ。

 

サイドを駆け上がって上げるセンタリングは、ハーフラインを越えたら上げるものになり、器具の機能が勝敗を決める何よりも大きな要素となった。

 

勝てば大きなお金を取れる試合に勝つために、器具の機能は飛躍的に向上した。

 

その恩恵は、普通の生活のための器具まで及んだ。車いすを使って移動する人はいなくなり、足を失っても、普通に歩いて生活できる世の中になった。

資本主義と民主主義と科学の時代が終わる

もともと、資本主義と民主主義と科学は、民衆が平等な生活をすることをドライブしてきた。

でも、現時代では、これ以上王様や権力者から奪いたい能力はない。

というか、王様や権力者をうらやましいと思わない。

 

そして、資本主義・民主主義・科学が世界をドライブしてきたため、その3つの作り出す価値観が現時代も残っている。その3つが世界をドライブできていないにもかかわらず。

 

例えば、お金がその人の価値を測る基準になっているし、多数決のような民主的なやり方で物事を決めることがよしとされているし、何でも科学的に答えが出るべきだと思っている。

 

ひとつずつ見ていきたい。

 

まず、資本主義の話。

貧しい人たちの生活を人間的な生活にするのは、お金。これはまぎれもない事実。

資本主義の役割はそこにある。

 

資本主義が起こったのも、お金を稼ぐことで、生まれや身分に関わらず、人間的な説かつを送ることができるようになったから。

でも、それが十分になったとき、人間的な生活をできるようになったとき、お金は資本主義において、次の欲望を駆り立てようとする。

十分なのにも関わらず、他の人はもっといい家に住んでいる、もっとおいしそうな食事をしている、それをうらやましいと思い、足るるを知らず、贅沢をする。それが資本主義の悪なんだと思う。

だが、贅沢をうらやましいと思わない価値観が出てきたと思う。

だから、お金があっても、他の人がうらやむようなことができなくなってきた。

 

ふたつめに、民主主義の話。

昔は、権力のない人たちは、権力のある人が決めるように、生きていかなくてはいけなかった。もしくは、理不尽に殺された。

恋愛や職業も、誰かが決めたものに従わないといけなかった。戦争にもいかなくてはいけなかった。

だから、みんなで社会の形を決めれるようにした。一部の人が決めるのではなく、みんなで決めれるようにした。そして、自由を手に入れた。国に制限されていることは、みんなが納得できるものだけになった。

でも、十分な自由を手に入れたはずなのに、もっとよい社会、もっと自分に都合のよい社会にしたくなった。最初は、自由が欲しかっただけだった。理不尽なことをしたくないだけだった。

でも、今は、なんで困っているのに助けてくれないのかと思うようになった。

誰もが幸せだと思える社会なんじゃなかったのか。自分が苦しいのは、社会のせいなんだ。と思って、色々な人が、色々な欲望を発信し始めた。

でも、今は、最低限の生活と、自分で選択できる自由がある。きっと、民主主義ができることはここまでだ。

 

そして、科学の話。

昔、科学が生まれた。誰もが自分の力を強くしたかった。もっと楽に水を飲めるようになりたい。もっと楽に服を作れるようになりたい。もっと知識が欲しい。もっと壊れない家がほしい。もっと速く移動したい。

そして、それができるようになった。

人は十分な力を科学を使うことで得ることができた。

少なくとも物理的な力は最大限得ることができた。思考力はまだ拡張の余地があると思うが。

だから、みんなが欲しいと思う力は、みんなはもう持っている。十分すぎて、時間を短縮したり、安くものを作れたりすることばかり、目指すようになってきた。

それは、何の能力も拡張していない。科学が生み出せる能力はあまりにも伸びしろが少なくなってしまった。

ちなみに、宇宙はどうやってできたかとかの謎は、まだまだたくさんあるが、それを解くことは役に立つとは思えない。謎のままでいいというか、どうでもいい謎。

 

そうやって、社会は、資本主義・民主主義・科学にドライブされて、現時代のような世の中になった。昔に比べれば、とても素晴らしい世の中だと思う。

でも、その代わりに、社会は、資本主義・民主主義・科学に支配されてしまった。

 

お金のある人が、社会の仕組みを決め、そこは、お金のある人が都合のよい社会になり、お金を持っている人が社会に貢献している人だと。

人の気持ちではなく、論理的に、科学的に正しいと評価できることが正しいことだと。

デザインや音楽を真似して、より素敵な気持ちにできる何かを生み出したとしても、真似することはルール違反だからやってはいけないと。

自分が生きる可能性を追い求めるために大麻を使うことは、ルールで決められていることに反するからダメなんだと。

お金儲けにならないから、介護は手を抜けと。

サービス残業しろと。友達との約束を破っても働けと。

安全性に問題があっても売れと。賞味期限切れになるものがたくさんあるとわかっていても、おにぎりの種類を増やせと。

農薬をたくさん使って食品を作れと。

放射能をまき散らして住めなくなる場所を作るかもしれないが、安い電力を作れと。

おまえが苦労すれば、社会が幸せになるからと。

 

そして、お金さえ稼げれば幸せになると。

だから稼がせろ。保育園を作れ、税金を下げろ。

コストダウンできるような技術をつくれ。満員電車で通勤しろ、遅刻するな。

 

そうして、世の中をよくすることも、人類の発展に寄与することもしないまま、

資本主義で手にしたはずの人間的な生活を手放し、

民主主義で手にしたはずの自由を手放し、

ただただ苦労して、つらい思いをして、何のために生きているのかわからなくなる。

 

そこに残るのは、忙しさに追われ充実していると錯覚することと、

好きなことをやっている人をねたむ気持ちと、

贅沢することが幸せだと思う勘違い、

そして、頑張らないことへの罪悪感。

 

じゃあ、現時代は、どうなっていくのか。

資本主義に代わって、人が人を幸せにどれだけしたかをもとに、人を評価する思想と、

民主主義のように誰もが幸せであることではなく、ローカルな、自分の周りの人だけをもっと幸せにしようとする思想と、

科学のように論理的によい悪いを判断するのではなく、人の気持ちを軸に判断する思想が、

社会の基盤になるような気がしてならない。

3. お金が力の象徴ではなくなってきている

今までは、それぞれの人がいろんな職業について、

ちょっとずつ社会に貢献することで、社会がまわっていた。

 

そこで、お金は、君はちゃんと社会に貢献していると示す証拠だった。

社会にどれだけ貢献しているかを示すバロメータがお金だった。

 

一方、今は、ITやロボットが発達し、

人がやらなくてはいけない仕事が減った。

一人ひとりが働く量が少なくても、社会が回るようになった。

 

だから、仕事をしなくても生きていける人が社会に生まれてもいい状況になった。

 

だが、貢献している人じゃないと、お金を得られない。

生活保護や休職手当のようなものは、それはそれで変なものになっている。

 

貢献していなくてももらえるお金というもの、

もともとのお金の意味からすると変で、

さらに、貢献している人と同じぐらいもらえてしまうため、

貢献していることを示すお金という意味が揺らいでしまっている。

お金が貢献性を測るものではなくなってきている。

 

マズローの3つ目の欲求、社会的な要求は、社会に認められたいという欲求だ。

 

今までは、お金を得られることが、社会から承認されていることだったが、

そうではなくなってしまうと、

今、社会から承認されることとは何なのかという問いに行きつく。

 

企業というものの話をしよう。

 

今までは、企業に勤めていること、企業が社会から認められ、

企業に自分が認められことが、

自分が社会から認められていることだった。

 

しかし、社会が企業を認める基準は売上高だが、

お金が判断基準ではなくなってきていて、

大企業が売り上げを維持できなくなってきて、

社会に企業が認められているかどうかが怪しくなってきた。

 

そうすると、企業に認められること、たくさんの給料をもらうこととか、

昇進することが、社会から認められることを示しているかも、

怪しくなってきてしまう。

 

じゃあ、そもそも、社会から認められるとは、何なのか。

そういう状況でも、何があれば、社会から認められていると

思えるのか。

 

思うのは、感謝されること、必要とされること、誰かが助けてくれることなどの

横の関係性と、

人の上に立つこと、自分より下の人がいることという、

縦の関係性の2つがあるように思う。

 

縦の関係性にしぼって考えると、

今、人の上と下を明確に区別しているもの、

リア充と非リアの関係性なのではないかと思う。

リア充という特権階級が生まれつつあるのではないか。

 

みんな、facebook上に、自分がどれだけの特権階級かということを、競ってあげる。

おもしろいのは、そこでは、あまり旧価値観の話がされないということ。

 

昇進した、お金を持っている、大企業に就職したなどはあげない。

そんなことより、どれだけ自分が楽しくて幸せな生活をしているかを書く。

人にうらやましがられること、それが、リア充のステータスだ。

 

うらやましがられることをやるためには、情報を持っていないといけない。

旧価値観による、いい条件の休みがとりやすく、給料がよい職でないといけない。

 

でも、重要なのは、それをどうやって活かすか。

リア充になるためには、そこにエネルギーを使わないといけない。

 

また、リア充になれそうな集団は、大規模になるのは難しい。

なぜなら、周りがみんな同じぐらい幸せだと、その人が幸せなのが曇ってしまうから。

小さな、リア充になれる集団というものが興ってくるのではないかと思う。

 

また、集団としては、どれだけ自分たちが幸せかを

アピールすることが重要になるかもしれない。

自分で、自分の幸せをアピールすることは気が引けるが、

集団の楽しさをアピールすることは許される。

 

集団の役割は、今後、そこに属する人が

どれだけ幸せかをアピールすることに

シフトしてくのではないかと思う。

 

2. 大企業のコスト高が無視できなくなってきている

今まで日本の社会を支えてきた大企業。

 

大企業がイノベーションを起こし、

イノベーションを起こした企業が大企業になり、

大企業が社会を変え、日本をよい国にしてきた。

 

だが、それが変わってきていると思う。

それは、大企業であるメリットがなくなったため。

 

今までは、大企業であることで規模の経済が働き、

小さな企業よりも効率よく製造・生産することができた。

 

どのように状況が変化しているのかについて、

4つの視点から話をしたい。 

 

tosshietosshie.hatenablog.com

 

 

tosshietosshie.hatenablog.com

 

 

tosshietosshie.hatenablog.com

 

 

tosshietosshie.hatenablog.com

 

大企業が小さな企業よりコスト高になっていることについて、

それは企業だけの話ではない。

 

住宅事情も同じなのではないかと思う。

マンションより、一軒家の方が安くなってきている。

 

 

tosshietosshie.hatenablog.com

 

 

 

 

2-5. マンションより一軒家の方が安い

最近、マンションと一軒家の価格がほとんど変わらなくなっている。

それは、マンション一部屋をを作るためのコストが、

一軒家を作るよりも上がってるからなんだと思う。

 

昔は、とりあえず住めればよかったから、

団地みたいな箱を用意すればよくて、

土地の値段を案分できるマンションの方が安く作れた。

 

でも、最近では、マンションは、誰もが納得するクオリティを作らなくちゃいけない

一軒家は、一家族が納得するクオリティでいい。

 

しかも、一軒家より階数があるから、建築のための資材費も高くなる。

販売のための人も必要だし、広告費も必要。

エントランスも、誰もが納得するきれいさじゃないといけない。

 

修繕費とかメンテナンスの費用も、

誰もが納得するやり方をしようとすると、高くなってしまう。

 

一階、二階の人気のない場所を安くするために、

上の方の階にコストを転嫁しないといけない。

 

土地の値段を案分できるより、その他の費用の方が高くなってしまって、

マンションより一軒家の方が安くなっているのではないかと思う。

 

2-4. ものづくりではなくなった

 もの、物体を作る場合、安くたくさんの原料を仕入れて、

たくさん物を売るというビジネスモデルは正しかった。

でも、今、何かをたくさん製造して売るモデルは、ほとんどうまくいかない。

 

それは、技術からコンテンツの社会になっているから。

コンテンツを作る場合、イノベーションを起こすための初期コストが、

工場を作ることに比べれば、かなり安くすむことも、大企業であるメリットを

小さくしている要因だと思う。

 

技術からコンテンツの社会になってきているという話については、

以下ページを参照。

 

 

2-3. 大企業に対する世間の目

 大企業への世間の風当たりが強い。

インターネットができて、個人が調べることができる情報が増えたことも理由にあるのかもしれないが、今まで隠せていたことが隠せなくなっている。

 

また、大企業は、人が多い。

そのため、どの人間も同じ確率で不正をすると仮定すると、

大企業は不正をする確率が高い。

 

大企業は目立つ。

しかも、多くの人が知っている。

だから、何かが起こった時に、すぐに知れ渡るし、

何かの不正があることが発見されやすい。

 

そのための制御用のコストが、大企業に大きくのしかかっている。

社内ルールの整備と、それを維持するコストが大きく、

そのルールにがんじがらめにされてしまい、自由に活動することを防いでいる。